『すばる』8月号に寄稿しました(+ボツ原稿供養所)
そしてもうひとつ、考えていた路線があるのですが、これちょっと環境オタク色が強すぎてジャンル違いだわ、と思ってやめました。それをここに書いておこうと思います。上の「花が満開になっていた」話と少しつながるのですが。
3月以来、世界の国々が次々とロックダウンを決めていくのを見ていて、ひとつ思ったのは、「やろうと思えばこれぐらいできちゃうんだな」ということでした。危機が差し迫っているとなったら、たとえ経済が大ダメージをくらうことになろうと、各国の政府はここまですることも辞さないんだな、と。そして、もうひとつの差し迫っている危機(見方によってはさらに大きな脅威)、つまり気候危機に対しては、なぜこういう対応にならないのだろう、ということも。
差し迫っていると感じられないから? これから10年で温室効果ガス排出量を半分にし、2050年までに実質ゼロにしなければ、地球の気温上昇は1.5℃を超え、もはや人間にはコントロールできない、取り返しのつかない変化が起こる可能性がある、といわれています。じゅうぶん差し迫っている、というのが、2015年パリ協定の認識だったと思うのですが。
今回のパンデミックで、移動や経済活動が制限された結果、二酸化炭素排出量が2019年よりも17%減という試算があるそうですね。大気汚染が解消されたとか、数十年ぶりにエベレストの頂上が見えるようになったとかいった報道もありました。
その一方で、ここまでしても17%しか減らないのか、と思ったことも事実です。これだけ人々が行動を制限しても、これだけ経済が大損害をこうむっても、17%しか減らないのですね。そうなると、やはり社会を死なせずに排出量を減らすには、政策レベルで化石燃料を減らし、再生可能エネルギー技術や循環型経済を補助するしくみが必要なのだと実感します。個人が排出量を減らす努力をすることには意味があるけれど、それだけではどうにもならない。私も一介の環境オタクとして、個人的にいろいろ工夫してきたけれど、これからはどんどん政治への働きかけもしていかなければ、と考えるようになりました。
よく「地球を救おう」とか「自然を守ろう」とか言いますよね。でも、考えてみると、地球は人間がいなくなっても、なんの問題もなくやっていけるんですよね(むしろ人間がいないほうがいいのかもしれない)。気候危機に取り組まなければならないのは、地球を救うためではなく、ひとえに人類を、自分たちを救うためにほかなりません。
それもまた、この春に実感したことのひとつです。ウイルスひとつで人類が右往左往する中、草木は芽吹き、花は咲き、自然は人間の営みにかかわらず、ただそこに存在している。COVID-19による危機も、気候変動による危機も、そこから人類を救わなければならないという意味では同じです。地球はいずれにせよ問題なく存続するので。
だから、ほんとうは、気候危機にもCOVID-19に対するのと同様の危機感をもって取り組まなければならない。今後、ウイルスの脅威が去ったとしても、それからただ元に戻ってしまうだけでは、次なる危機が襲ってくるだけだと思うのです。
スウェーデンでは毎年、夏になると、各界の著名人がホスト役を務めるラジオトーク番組が放送されるのですが、今夏そのトップバッターとなったのが、環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんでした。英語版もあるので、ぜひ聴いてみてください。これを聴いて恥じ入らない大人がいたらお目にかかりたい。(いや、むしろお目にかかりたくないかもしれない……)
https://sverigesradio.se/avsnitt/1535269
「科学者の言うことに耳を傾けて」というのがトゥーンベリさんの一貫した主張なので、こちらも紹介します。環境学者ヨハン・ロックストローム氏のトークです(英語)
https://sverigesradio.se/avsnitt/1425542
日本の環境省が公開しているIPCC報告書関連資料はこちら。各作業部会の概要が参考になります
http://www.env.go.jp/earth/ipcc/5th/
考えてみたら、「文芸誌だしジャンル違いだわ」なんて言っている場合ではなかったかもしれない。あらゆるジャンルの人間活動に関係のある話ですもんね。